【友情とは】アリストテレスフィリア論
先日高校の頃の友人が、二人続けざまに婚約を発表し我々界隈を騒然とさせるという事件が起こりました。
そのうちの一組には、即日お祝い訪問、彼女の幸せそうな顔を見ているとなんだか結婚っていいなと漠然ですが感じざるを得ないほどの新婚感…
ほほえましいったらない、得も言われぬ気持になりました。
本当におめでとう!!
さて、婚約発表の彼は高校時代から現在に至るまでの友人ですが
彼に関しては、祝い事は心から賞賛し、その幸せを一緒に分かち合える数少ない一人になります。
そこでふと感じたのは
「友人の中でも、知らない間にカテゴライズしている自分がいるかもしれない…」
という感覚です。
昔読んだ、アリストテレスのフィリア(友情)という考え方、【ニコマコス倫理学より】がものすごくしっくりくるものだったのでこれに沿って分類していこうと思います
~フィリア(友情)は大きく3つに分類が可能であるといわれている~
1 実用の友情
2 快楽の友情
3 善の友情
である。
1→2→3に行くほど、親密な関係を築いている友情におけるレベルを表すとフィリア論では語っている。
実用の友情とは…
他社への敬意無しでの友情のこと【いわゆるヨッ友というやつである】
こういった友人(もはや友人と呼べるのか?)は、アクセサリーのような感覚で友人であることを誇示したりされたりすることがある。
例 超ハイスペックな人に対し、一度だけ飲みの席で一緒になっただけにもかかわらず友人面するも実はそんなに仲が良くない
上記のような動機付けが失われたとき(付き合う理由がなくなった時)簡単に切り捨ててしまうのがこの“実用の友情”である。
快楽の友情とは…
人々集団内における趣味、趣向の共有が可能な友人である。
実用の友情よりも親密度としては高く、その存在をはっきり認知しており頼りになる存在であると自覚している状態である。
例 あんまり知り合いがいない飲み会だけど、まああいつがいるなら行ってもいいかな…
こう思える友人が快楽の友情を築いた状態であるといえる。
最後に、善の友情とは…
相互の性格を相互に楽しむことができる関係性のことだ。
その存在、性格を超越し、彼はああいう人間だけどそれも含めて彼らしい、と認識している状態。
フィリアの中でも最上級の状態であり、いわゆる親友、(彼女)はここに君臨する。
善の友情を増やしていくことが
目下学生時代の目標であったわけだが
なかなかここまでの関係性を生み出すことは難しい。
もちろんこの感覚的な面が大きい理論で
はっきりと現状の段階を評価することはできない、自己満足である。
ただ、善の関係性が人生を豊かにすることは間違いない。
おそらく、ここまでの人生をふりかえると、
友情に関しても、その割合に関しては保存すると考えられるので
(一度に深く付き合う人の数というのは一定数が限界である…)
これからも、今後の人生を豊かにするために今何をすべきなのか?
というところをかんがえ抜きながら今ある幸せをかみしめるとともに
はっきり見えている改善点
(ヒトモノカネ)
を充実させる努力を怠らないよう過ごしていく必要がありそうですね。
仕事、女、友人、お金…
やることいっぱいで楽しいなぁ…
悩みは尽きませんね( ´∀` )
おわり